「働き方改革」の議論のなかで、過労死ラインを超えた36協定の特別条項の問題が大きな争点となっている。
大阪過労死問題連絡会は、過労死を生み出す要因であるこの問題を明らかにするため、平成16年に36協定の情報公開を求める訴訟を大阪地裁に提訴し、平成17年3月17日に公開を認める判決(労働判例893号47頁)を得て、国側の控訴はなく確定した。
以降、私はこの判決に基づき36協定の情報公開によるウォッチングを続け、過労死ラインを超えた特別条項が、優良企業と称される大企業も含めて、労使合意の下、締結されている事実を「発見」してきた。
10数年前のこの訴訟の意義を見直すことは、「働き方改革」を考えるうえで大切であると考え、当時私がこの訴訟について述べた文章を掲載する。
1 過労死救済から過労死防止へ
大阪過労死問題連絡会は、1981年6月に創立以降、過労死の遺家族の労災認定や企業賠償責任追及の訴訟等を通じてその救済を進めてきた。
しかし、毎年行ってきた過労死110番に寄せられる相談の過半数は、夫や子が長時間労働により心身の健康を損ねることを憂える妻や父母の声であった。
過労死の遺家族の救済にとどまらず、過労死を生み出す職場の労働環境の改善を、遺家族の「ノーモア・カローシ」の声を背景に進めることなくして過労死問題への取組みはない。
2 「ノーモア・カローシ」の2つの課題
「ノーモア・カローシ」の運動を進めるには何を重点にすべきか。過労死事件の温床の1つはサービス残業(賃金不払残業)であり、もう1つは36協定の問題である。
サービス残業は、タダで労働者の労働時間を買うことができるものであることから、長時間労働、過労死の温床を職場に生み出す元凶である。また、サービス残業がはびこる職場では労働時間の把握は行われておらず、過労死の労災認定に取り組む遺家族にとっては、労働時間を立証する大きな壁となっている。サービス残業や労働時間管理がなされていない職場では過労死は(証拠がないため)認められない、こんな不合理は許されない。労基オンブズマンでは「サービス残業110番」を実施し、その相談(労働者である夫や子からの相談でなく、殆んどは家族からのものである)に基づき、労働局への匿名による労基法違反の告発や、サービス残業分の割増賃金(付加金も含めて)の請求をするなどの取組みをしてきた。
サービス残業への取組みと併行して「ノーモア・カローシ」のもう1つの柱の運動として36協定問題への取組みを進めることになった。
3 過労死を生み出す36協定の存在
36協定問題の重要性を認識したのは、ある大手電器メーカーの工場で技術職として勤務していた青年が過労死した事件についての会社とのやりとりのなかからである。
その青年の月当りの時間外労働は月80時間を超えることが資料等により明らかであったが、会社の労務担当者は、「当社には36協定違反の事実はない」と胸を張って36協定を提出した。
その協定には、時間外労働の限度として、一般の業務に従事する者については月当り40時間以内(1年360時間以内)と記載されている。しかし、「新技術・新商品等の研究開発に従事する者の場合、月当り60時間以内」としたうえ、「但し、特別な事情によりこの基準(月60時間)を超えて時間外労働を行わせる場合は年900時間以内とする」と定めていた。
36協定による時間外・休日労働の延長の限度については、平成10年12月28日労働省告示第154号で1ヵ月45時間、1年間360時間等が定められ、これが職場で守られていれば過労死は生じるはずはなかろう。
4 36協定の2つの抜け穴
この36協定の条項には2つの重要な問題がある。1つは新技術・新商品等の研究開発業務に従事する者については、前記の36協定の限度時間についての告示の対象外となり、時間外労働については限度がなく青天井である点である。
もう1つは、「特別な事情により」時間外労働に従事させるときは、この告示の限度時間を超えることを、告示自らがその第3条で認めている点である。いわゆる特別条項の問題である。
この2つの点については後に詳述するが、労基法上は時間外労働の限度を定め、長時間労働を規制するための36協定が、逆に職場のなかでは月80時間の時間外労働という過労死ラインを超える長時間労働を容認するものとなっていたのである。
5 大阪労働局長への情報公開請求
厚生労働省に、労基署長が受理した36協定の特別条項についての調査をしているかと聞いてみたが、そのような調査をしたことはないとのこと。労基オンブズマンとして36協定、とりわけその特別条項を社会的に明らかにすべく03年2月、大阪労働局に対し02年4月1日から4月4日の間に大阪中央労基署長に届出された36協定について情報公開法第3条に基づく情報公開請求を、労基オンブズマンの会員弁護士が個人として行った。
この情報公開請求の目的は、どの事業所(A社B支店等;36協定では「事業の名称」欄に記載される)において、どのような内容の36協定が締結されているかという点にある。「事業の名称」の開示なくしては、過労死ラインを超える36協定特別条項が、どの会社のどの事業所で締結されているかを明らかにできない。
6 情報公開訴訟の提訴
しかし、大阪労働局長は、「事業の名称」等を不開示とする決定を下し、厚生労働大臣に審査請求をしたが、「事業の名称」等については不開示とする裁決が04年3月に下されたため、大阪地方裁判所に不開示処分取消を求める情報公開訴訟を提訴した。
障害者雇用率についても、36協定の情報公開に先立って、大阪の株主オンブズマン等が情報公開請求を大阪労働局長に対して行い、事業所の名称を含めた開示を得ていた(情報公開審査会の答申に基づく厚生労働大臣の裁決により)。
障害者雇用率も36協定の内容も、会社としては社会的に知られたくない情報であろう。しかし、市民による会社の監視という点では、いずれの情報開示も重要性を有する。
7 訴訟での争点
大阪地裁での主な争点は、36協定の「事業の名称」を含めた情報が、
① 人の生命、健康、生活又は財産を保護するために公にすることが必要と認められる情報に該当するか(情報公開法5条1号ただし書ロ)
② 当該法人又は個人の正当な利益を侵害する情報であるか(同法5条2号のイ)
③ 国の機関等が行う事務事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるか(同法5条6号)
の3点であった。原告は、36協定を公開し、それを市民的監視の下におくことは事業者(会社)にとっては知られたくないことであっても、労働者の心身の健康を守るために大切であること、また適正な36協定の締結という行政目的を遂げるためにも、その内容を開示することが重要であることを主張し、神戸大学阿部泰隆教授の意見書を提出した。
8 「事業の名称」の開示を認めた判決
05年(平成17年)3月17日に下された判決(労働判例893号47頁)は、①の点については該当しないとしたものの、②については、「個々の事業者が就業時間等を公にしたくないということはあり得るが、情報公開法5条2号イの利益侵害情報に当たるといえるためには、主観的に他人に知られたくない情報であるというだけでは足りず、当該情報を開示することにより、当該事業者の公正な競争関係における地位等の利益を害するおそれが客観的に認められることが必要であるところ、本件においては、かかるおそれが存在すると認めるに足りる証拠はない。」として、利益侵害情報に該当しないとした。
また③については、「事業者は、使用する労働者に法定労働時間を超えて勤務させ、又は法定休日に勤務させようとするときは、36協定を行政官庁に届け出なければならないのであり(労基法36条1項)、協定届には本件様式に準じ必要的記載事項を記載しなければ、行政官庁はこれを受理しないのであって、この点につき事業者に選択の余地はない。そして、前記1および2において不開示情報に当たると判断した部分以外の部分について、当該事業者が作為的記載をし、これによって被告の監督事務が妨げられるおそれがあると認めるに足りる証拠はない。そうすると、前記1及び2において不開示情報に当たると判断した部分を除いた本件不開示情報を開示したところで、行政官庁にとって正確な事実の把握が困難となり、又はこれに類するような実質的支障が招来されるおそれがあると認めることはできない。」として、労基署長の行う事務の適正な遂行に支障を及ぼすおそれはないとした。
この判決により、「業務の種類」「労働者数」「時間外休日労働をさせる必要のある具体的事由」等の開示は認められなかったものの、どの会社のどの事業所で、時間外・休日労働について、どのような限度基準の36協定が締結されているかが市民的監視の下におかれるようになった。
9 判決に基づく日経500社の36協定の開示
労基オンブズマンは、この判決に基づき、日本を代表する大企業とも言える日経500社の本社における36協定について、全国各地の労働局長宛に情報公開請求を行った。そのうち大阪府下に本社のある会社の情報公開により入手した36協定特別条項で定められた時間外休日労働の限度時間は別表記載のとおりである。
時間外労働のみで過労死ラインの月80時間以上の限度が定められている会社はほぼ半数に及んでいる。
この訴訟を提訴する契機となった「当社には36協定違反の事実はない」と胸を張った労務担当の言葉は、過労死が生じている多くの会社にとって共通のものであることが明らかになった。
10 情報公開に基づく運動について
36協定の情報公開を通じて、いかなる事実を明らかにしていくべきか、つぎの各点が考えられる。
① 過労死ラインを超える36協定特別条項の存在を社会的に明らかにして、そのような36協定を受理させない取組みを労基署、労働局、厚生労働省に対して行うこと
この点に関し厚生労働省は、平成15年10月22日基発1022003号をもって、特別条項の「特別な事情」は臨時的なものに限り、その内容にできる限り詳細に協定を行い届け出ることなど、特別条項の限定的運用を求める通達を出している。目に余る特別条項のある会社を中心に、協定を受理させない具体的取り組みも必要ではないだろうか。特別協定のある事業所では、限度基準告示に基づく一般協定は無視され、過労死ラインを超える特別条項が時間外・休日労働の延長の基準になっている。原則と例外の逆立ち現象から過労死が生まれている。
また、特別条項を適用するには事前に労使当事者の手続を要することを告示は定めているが、この手続がずさんになっており、労働者側のチェックが事実上なされていない事業所が多い。この点の検討も不可欠である。
② 過労死を生じた職場の36協定を開示させ、過労死と36協定との関係を調査すること
36協定の適正な締結のない職場が過労死を生み出すことを明らかにする。過労死問題と36協定が運動としてつながったとき、社会的共感の下、大きな運動につながることが期待される。
③ 36協定の限度時間の告示の対象外となっている業種を撤廃させること
36協定の限度時間の告示に定められた限度時間の定めは、
・工作物の建築等の事業
・自動車の運転の業務
・新技術、新商品等の研究開発の業務
・季節的要因等により業務量の変動の著しい事業
については適用しないことを告示第5条は定めている。
しかし、これら事業または業務では長時間労働が常態化し、過労死が多く生じている。36協定で時間外・休日労働を強く規制すべき事業または業務を、告示の限度時間の対象からはずしているのである。
自動車の運転業務については、「自動車運転者の労働時間等の改善のための基準」があるからとのことである。しかし「改善基準」そのものが、例えばトラック運転手については1日16時間、1ヵ月293時間の拘束労働時間を認めるなど、「改善基準」として機能していない。トラック、タクシー、バス運転手の過労死、過労運転による事故は、「改善基準」並びに告示の除外業種になっていることから生じていると言っても過言でない。
「新技術、新商品等の研究開発」について、先に述べた青年が過労死した大手電器メーカーでは、「システム開発業務、ソフトウエア開発業務、生産技術開発業務、施設技術開発業務、宣伝デザイン業務、マーケティング・リサーチ業務等」その業種の範囲は無限定とも言える内容となっている。
労働者の健康や安全を守るため限度時間を厳格に定める必要のある、長時間労働のはびこりやすい事業、業務を意図的に告示から除外しているものであり、この是正は欠かせない。
④ 医師を除外した36協定のチェック
医師の過労死・過労自殺の事件が注目を集めている。医師の殆んどは月80時間を超える、かつ精神的緊張度の高い時間外労働に従事している。
病院の36協定を調べると、医師については限度時間の定めをしていないものが多く見られる。限度基準の告示を遵守して定めをしても、到底その時間外・休日労働の限度内では業務を行うことができないからであろう。
また特別条項を定めても、それは常軌を逸した長時間労働を認めたものになってしまうからである。ある赤十字病院の特別条項は、「労使の協議を経て1ヵ月につき180時間、1年につき1800時間までこれを延長することができる」と定められている。
医師の長時間労働に対しては、患者の命と健康を守る視点からも取組みが必要である。
⑤ 休日労働について
36協定では時間外労働が注目されるが、休日労働についてのチェックも不可欠である。すべての休日に休日労働に従事させることができる旨定めた協定も少なくない(別表参照)。時間外労働の限度と休日労働の限度をセットにして労働時間の延長の問題を考える視点が大切である。
36協定の情報公開訴訟の判決により、どの会社の36協定についても市民的監視が可能となった。36協定の内容の開示に基づき、労働行政に対してはその受理の適正化を求めるとともに、刑事処罰も含めた事業所への監督を求めることが大切である。
⑥ 労働時間の把握なくして労働時間の規制なし
36協定が有効に機能するためには、適正な労働時間の把握が不可欠である。多くの職場、とりわけホワイトカラーの職場では、サービス残業と36協定違反の長時間労働を隠ぺいするため、過少な自由申告による労働時間把握しか行われていない。
また、ホワイトカラーエグゼンプションが職場のなかでは先取りされており、管理監督者でない管理職(判例では部長職でも管理監督者でないとするものもある)に対する労働時間管理は全くなされていない職場も多い。
適正な労働時間管理のない職場では、36協定の限度時間は画餅にすぎない。「労働時間の適正な把握のため使用者が講ずべき措置に関する基準」(平成13年4月6日、基発第339号)を活用して、タイムカード等による客観的な記録に基づく労働時間把握を併行して求めることも不可欠である。
⑦ 36協定が生み出す過労死への責任追及
会社、事業所に対しては、まず過労死ラインを超えた36協定をやめさせたり(ケースによっては労働組合、労働者代表への申入れも必要であろう)、更には、前記の医師についての36協定のように、過労死ラインを大幅に超える36協定が労使間で締結され、かつ労基署長がこれを受理したような職場で過労死が生じたときは、会社のみならず労働組合や労基署長(国)を被告とする損害賠償請求さえ課題となろう。
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