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2016年3月23日 (水)

過労自殺事件のご遺族との熊本の啓発集会での再会

3月19日(土)の午後、熊本市内で過労死等防止対策推進法の啓発集会が開かれ、私が「命や家族より大切な仕事って何ですか」の演題で基調講演をした。

私が担当した過労死や過労自殺の具体的な事件に基づいて、過労死等を防止するためには、何よりも労働時間の適正把握という当然のことが職場で行われることが大切であることを中心に話をした。

会場には、私が他の弁護士2人とともに担当した事件のご遺族であるYさんも出席し発言された。
Yさんは平成14年5月にご主人を過労自殺で亡くし、労災認定を得たのち、熊本地裁に会社(山田製作所)を被告にして損害賠償請求を提訴し、平成19年1月全面勝訴の判決を得、福岡高裁、最高裁でも同様勝訴された方だ。

この事件では、過労自殺について会社の責任が認められるか否かについて「予見可能性」という問題が大きな争点となった。
会社は、ご主人の自殺前には健康状態が悪化した症状は社内では認識できなかったから、うつ病発病・自殺に至ることについて予見することはできなかったと主張した。
これに対し原告は、発病前の時間外労働が月100時間を超える長時間労働等、うつ病を発病するおそれのある過重な勤務をしていたという就労態様を会社が認識していた以上、予見可能性は認められると主張した。
当時、過労自殺の責任が認められるか否かについての重要な争点であったが、地裁、高裁、最高裁は、いずれも原告の主張を認め、就労態様の認識で足りるとした。

この判決以降、長時間労働によるうつ病発病・自殺の損害賠償請求事件では、ほぼ例外なく、会社の予見可能性を認め、原告勝訴の判決が下されており、被災者の救済を推し進めた判決だ。

集会の当日、Yさんは、しっかりとした口調でご主人の悲しい出来事を語り、参加者にノーモアカローシの思いを感動をもって伝えてくれた。

私も、この事件に取り組んでいた当時のことを思い出し(熊本地裁の判決時には、立証・主張すべきことはやり尽くしたと思っていたが、手にはこっそり東大寺で求めたお守り札を握りしめていた)、目頭が熱くなった。

以下、Yさんの発言を本人の了解を得て引用しておく。

私の夫は、生前、大手自動車メーカーの下請け工場に勤務し、度重なる長時間労働と、上司からの度を越えた叱責や暴言に耐え、心身共に追い詰められた末に、自らの命を絶ちました。
私は、夫と同じ工場に勤めていましたので、当時の実情を、見たり、本人から聞いたりして、ある程度は把握していました。
平成14年4月に夫が塗装班のリーダーに昇格した当時、職場は過酷な状況に置かれていました。
部品の生産数がそれまでの2~3倍に増加したこと。塗装外観の品質レベルが格段に厳しくなったこと。しかしその数量と品質を賄える装置はなかったこと。それに加えて、繰り返す塗装ロボットの故障や装置の不具合、大量に発生した不良品の修正作業、事故や病気による従業員の慢性的な欠員など、問題が山積していました。
そんな中、夫は、他工程との調整役や自工程生産メニューの段取り、慣れないパソコンによる不具合発生対策書の作成など、リーダーに昇格した途端投げ込まれた、時間外勤務の泥沼の中を必死でもがいていました。
増大した仕事量と責任をひとり抱え込み、日付が翌日に替わってから帰宅するという異常な事態が、日常に変わっていきました。
リーダーの上には班長が居て、その上に係長が居るのですが、班でトラブルやミスが起きた時に、直接叱責を受けるのは何故か班長でなく、リーダーの夫でした。
上司の不満のはけ口にされていたようでした。
のちに夫の部下から知らされた話です。
叱責はエスカレートしていき、「辞めろ」「馬鹿」「死んだがええぞ」など、部下の居る目の前でしつこいほどの暴言が繰り返されていたということでした。
夫は、誰を責めることもなく命を絶ちました。
真面目で、心優しく、誰からも好かれる人でした。
24歳の若さにして、夫の葬儀には、斎場に収まりきれないほどの弔問者をいただき、彼の人望の厚さを物語っていました。
夫は、仕事が原因で自殺したのだと思いました。
あれだけ会社に尽くした人間が、何故、自ら命を絶つほどまでに追い詰められなければならないのか。
上司への怒りと、会社への不信が募りました。
『会社に一矢報いたい』という夫の父の強い希望と私の父からの提案があり、右も左もわからないままに、労災を申請することにしました。
しかし当時、警察では、「自殺で過労死が認められることなど絶対にない」と言い捨てられ、労基署は、会社側の署名がないという理由で労災の申請を受け付けてくれませんでした。
私は夫の死後、夫が居た会社に勤務することが辛くて、そこから逃げるように退職しました。
しかし、その後も度々会社を訪問して、労災の手続きをお願いする話し合いを重ねていました。
鉛を抱えるような気持ちで足を運びましたが、話し合いはいっこうに進展しませんでした。
私の父の助言で『過労死110番』の存在を知り、無料相談の電話を掛けた時に受話器を取られたのが、こちらにいらっしゃる松丸弁護士でした。
先生は、電話越しに私の話を聞き、遠い大阪にお住まいだというのに、1ミリも迷うことなく代理人を引き受けてくださいました。
松丸弁護士率いる、『過労死問題』専門の先生方のご尽力あって、私は夫の労災を勝ち取ることができました。
ただ、労災だと認められたけれど、会社から謝罪があったわけではありません。
夫はもう居ないけれど、私は、ただ一言、夫への謝罪の言葉が欲しかった。
しかし会社側は、「こちらには一切の非はない」との回答を示しました。
こちらは示談金を要求したわけですから、会社の立場上、当然予測できた回答と言えます。
しかし、ショックでした。
国が労働による災害だと認めても、会社は認めないものなのかと。
示談交渉は決裂しました。
全員で話し合い、夫の母の、「事実を明らかにして欲しい」という強い想いもあり、夫の過労自殺に対し、会社の責任を問う形で、裁判を起こす意志を固めました。
裁判中は弁護士の先生方のお力は勿論のこと、当時会社に在籍されていた方々の大きな支えとご協力をいただきました。
それから数年を経て、熊本地裁、福岡高裁、更には最高裁でも勝訴することができました。
お陰さまで私は今、夫の永遠の不在から立ち直り、仕事をしたり、人と関わったりと、前向きに生きることができています。
どんな企業も、自社の利益を得るため、企業戦争に生き残るため、経営側から従業員に至るまで、一人びとりがそれぞれの立場で苦労や苦痛を抱えておられると思います。
なので、誰かを個人的に責め立てるのも違うような気がします。
企業全体として、従業員の心や健康に対する配慮が足りなかったのだと思います。
人は、生きるからには、そこに意味を、生き甲斐を求めます。
仕事をするにも、努力したら努力した分だけの報酬が必要です。
報酬とは、給与だけではありません。
そこには、身を粉にして必死に困難な仕事に取り組んでいる従業員への、激励やねぎらい、賞賛などの言葉かけも含みます。
機械と同じように、人の心にも潤滑油が必要です。
油をさしてあげないと、心はきしみ、傷みます。
休ませてあげないと、心は壊れます、簡単に。
私が会社を経営される方にお願いしたいのは、人材の育成にもう少し注意を払っていただきたいということです。
今、多くの企業では、人件費削減を目的に、正社員を最小限に抑えるべく、社会経験、人生経験の浅い若年者が、早々に、上司として教育・指導する立場に置かれます。
これは、上司にも部下にも、厳しく困難な事態です。双方にとって、お互いへのストレスを増す環境と言えます。
学歴社会ですから、これはしかたのないことなのかもしれません。
しかし、だからこそ、『上司』という人材の教育がしっかり行われるべきだと思います。
社会経験、人生経験豊富な指導者による、『上司の育成』を行ってほしいのです。
上司という人材の適正を見極め、上司たるものが遵守すべきルール、マナーを定めてほしい。
『人が人を育てることの難しさ』と真剣に向き合ってほしい。
そうすれば、幾らかは、私の夫のような不幸な事件を未然に防ぐことができるのではないかと考えます。
深い自社愛の持ち主である生真面目な従業員が、企業に捧げた時間や苦労に報われることなく、職場における自身の生き甲斐を見失い、自らの命を絶つなどという絶望的な不幸は、少しでも減ってほしい。
従業員一人ひとりの人格を、殺すのでなく、生かす企業であることを願います。

2016年3月15日 (火)

過労自殺した松山市新入職員の件についての和解成立と、遺族である「お父様へのお便り」のメール

平成23年4月に大学新卒で松山市職員として採用され納税課に配属されたJさん(当時22才)は、入職半年後の9月5日に自殺した。

入職して納税課で担当した滞納案件は450件~500件だったが、7月には先輩職員と同様1300件~1400件と3倍に増加した。その結果Jさんの8月の時間外勤務は100時間を超え、うつ病を発病し自殺に至っている。

ご両親は松山地裁に松山市を被告として損害賠償訴訟を提訴し、本年1月20日松山市の責任を認める和解が成立した。

和解後、Jさんのお父様はNHKの取材を受けたが、和解が成立したことについて、「父親としての最低限の役割を果たしたと思う」と謙虚なコメントを述べた。
NHKのこのニュースを見たというKさんから、「私も亡くなられた彼と同様の厳しい立場に立った経験があり、筆をとらずにはおられず、お便りをさせて頂きました」と、私宛に「亡くなられた青年のお父様へ」と題するメールが届いた。

お父様の「最低限の役割」とのコメントに対し、「お父様が果たされたのは『最低限の役割』なんかではないです。父親として、人として『最大限の役割』を果たされたと、私は思っています。」と述べ、「これからも、お父様が裁判を戦い抜かれたことによって、道が開け、救われる若者が数多く出てくることでしょう。」と語っている。

このメールを読んだとき、私にはある作家の小説の最後に出てくる、「希望とは道のようなものだ、はじめはあるかなきかだが、多くの人が歩むことで道はできる」との言葉を思い出した。

かつて過労死、とりわけ過労自殺は社会的に認知されず、労災認定さえ極めて困難で、損害賠償責任を問うのはラクダが針の穴を通るようなものと言われていた。
しかし、遺族、被災者が、あるかなきかの困難な道を一人歩み、二人歩み、そして多くの人たちが歩むなかで救済の道は拓け、一昨年には、遺族らが100万人署名に取り組むなかで、国会で全会一致で過労死等防止対策推進法が成立するに至っている。

このメールをお父様にすぐ転送した。息子さんの命を失った悲しみを、このKさんのメールが少しでも癒やすことができればと思う。

2016年3月 3日 (木)

教師の部活動と過労死①

私が担当している教師の救命されたものも含む過労死事件で、昨年3件につき公務上の認定を得た。
いずれも公立中学校の部活動顧問の教師の事案だ。
①大阪府下のバレー部顧問(26才)、②岡山県下の野球部顧問(31才)、そして③高知県下の陸上部顧問(50代)の過労死(過労疾病)である。

地方公務員の公務上認定(民間労働者では労災認定)の判断は、各都道府県や指定都市にある地方公務員災害補償基金支部長によって行われ、公務外と判断されたときは支部審査会に審査請求ができ、支部審査会でも公務外にされたときは本部の審査会に再審査請求を行い、そこでも公務外とされたときは公務外とした判断を取り消すことの訴訟を、地方裁判所に提訴することになる。

①と③の事案は支部長段階で公務上と認められ、②の事案は支部長で公務外とされたため支部審査会に審査請求をし、そこで公務上と判断されている。

いずれの事案も、部活動の顧問として、放課後や朝練の部活や、休日の公式・練習試合による長時間勤務によって、心臓疾患や脳血管疾患を発症し、倒れている。

部活動による教師の過重な長時間勤務は、
「中学校で部活の担当に就くと、教師の忙しさが更に拍車が掛かる。平日は毎日6時半までクラブ活動、7時になってようやく職員室の机に向かって教材研究とか、ほかの事務の仕事が始められる。土曜、日曜は練習かあるいは練習試合。夏休みもない。クラブ活動から解放されるのは試験期間中だけ、その間は試験の問題作り。試験が終われば部活がスタートして、採点、成績評価もある」
(第169回通常国会・参議院文教科学委員会の質疑のなかでとりあげられた私信)
というのが実態である。

当然、教職員給与特別措置法が超勤を認める4項目に該当しない超勤がなされている。

私が担当した事案のいずれも、これに等しい勤務状況下で過労死等に至っている。

民間であればブラック企業で生じているような、心身の健康を損ねることが明らかな長時間勤務が、学校現場では公然と行われていると言っても過言でない。

私は、部活を通じて生徒たちが互いに切磋琢磨し、体力の向上や健康の増進等を図りながら、仲間との連帯感、豊かな感性、創造性及び社会性をはぐくむなど、学校教育の中でも人格形成に果たす役割が大きく、意義のあるものであることを否定するものではない。私自身や息子も、部活のなかで生きるうえで必要な多くのものを学んできた。

しかし、部活が顧問の心身の健康、家庭生活、更には教師としての本務である授業を損ねるような状況の下でなされていることについて、教師の過労死事件に多く取り組んできた弁護士として疑問を感じざるを得ない。

このブログ上でも、このテーマを今後検討しようと思う。ご意見をお寄せ頂ければ幸いです。

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