私が初めて出会った過労死事件
~タクシー運転手の過労死~
私は今、過労死・過労自殺事件の専門弁護士として仕事をしている。
弁護士は、過労死の事件に取り組みたいとの強い思いがあっても、具体的な過労死事件との出会いなくしてそれに取り組むことはできない。
私の過労死事件との出会いは、1979年1月25日午後5時である。
その日時に記載された相談カードは、「昭和53年1月19日、午前7時阪和線に乗車中、津久野駅付近の電車内で急性心不全で死亡」との書き込みから始まっている。
N交通大阪港営業所にタクシー運転手として18年間勤続していたKさん(当時47才)の過労死事件が、私の過労死事件との初めての出会いであった。
1月14日に勤務を終えたのち、営業所内で仮眠中、気分が悪くなり1日入院したが、退院後1日自宅で休養したのみで勤務につき、1月19日に出勤途上、電車内で急性心不全により死亡した。
当時は、過労死という言葉もなく、業務上として認定される率は3%以下という時代だった。
私も労災請求手続については全く無知のまま、労基署に遺族補償年金の支給請求をした。通勤中に倒れたのだから通勤災害として請求し、手続の途中で業務上災害での請求に差し替える始末だった。
Kさんのタクシー運転手としての勤務の過重性が認められ、1980年8月に大阪西労基署で労災認定の通知を受けた。労基署の前でカサもささずに夕立に濡れながら、ご遺族の奥さんと抱き合わんばかりに喜びを分かち合ったことを覚えている。
奥さんは故郷の宮崎市に戻り、2人のお子さんを立派に育て生活していたが、昨年末に白血病で1年の闘病後亡くなった。
宮崎地裁での過労自殺の事件の審理の後、ご自宅を弔問した。40年を経ていたのに、遺影は当時と同様、穏やかなお顔だった。
Kさんの事件は過労死専門弁護士としての出発点であり、原点である。
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