私が過労死専門弁護士になったわけ
依頼者から「若い先生ですねー」と不安気に見られながら弁護士の仕事を始めて40年、夫となり父となったこと以外、私生活上もさしたる波乱もなく年月は過ぎ去った感がある。
仕事は、隣の犬が自分に庭に入り込んで困るからと、犬の係留仮処分申立てをすることに始まり、世の中の大小を問わず、あらゆる事件を断ることなく受任してきた。
仕事の区切りをつけたのは還暦のとき、自分のハートに最も近い事件、やりがいのある事件と考え、過労死・過労自殺の事件のみしかやらないとワガママな決意をした。
私の生れは東京・新宿、商店街にある小さな米屋のせがれとして育ち、近所には中卒で集団就職し、汗水たらして働いている若者(自分も若者だったが)がいた。商店街の若者でサークルをつくり、フォークダンスをしたとき、漬物屋で働いていた女の子のヒビ割れた手に触れたとき、働くことの尊さが伝わってきた。この事件のみとの決意をさせたのはそんな思いかもしれない。
大切な人を失い涙にくれるばかりだった遺族が、労災認定の声をあげ、会社の責任追及に立ち上がり、国に対し過労死防止基本法の制定をするまでに至っている。
過労死・過労自殺あるところどこへでも飛んでいく、フーテンの寅さんの如き東奔西走の仕事に、妻からはもういいかげんにしたらとの声も聞こえるが、「お年寄りの先生ですねー」と不安気に依頼者に見られるまでは走り続けよう。
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―過労自殺事件における発病の時期の重要性― »
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