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2015年2月27日 (金)

大阪過労死問題連絡会の過去・現在・未来 過労死救済元年から過労死予防元年への歩み

<はじめに>
 1981年7月に結成された大阪過労死問題連絡会は、結成されたとは言っても「過労死」という言葉は未だ社会的認知をされておらず、「大阪急性死等労災認定連絡会」と名付けられた。
 この30年間に、急性死は「過労死」を経て過労死となり、そしてkaroshiとなった。
 労災認定から始まったこの取り組みは、企業賠償責任、更には過労死予防の運動に広がっている。また過労死の対象疾病も脳・心臓疾患からぜん息等の呼吸器系疾患、そして精神疾患、自殺と、過労・ストレスに関連する多くの疾病に及んでいる。
 そして何よりも過労死の被災者、遺族の悲しみのなかでの孤立した闘いから、遺族、弁護士、労働組合、更には「ノーモアカローシ」の声をあげた多くの市民にその共感の輪を広げた運動に発展し、過労死等防止対策推進法が2014年6月に制定されている。
 この連絡会の過去を振り返りながら、現在の到達点を確認し、未来を展望してみよう。

1 会の結成に至るまで
 連絡会結成前において、過労死の労災認定についての先駆的な取り組みが、大阪では新聞労連、自交総連、化学一般等の労働組合と、大阪労働者の生命と健康を守る実行委員会(現在の大阪職対連)が連携しながら進められていた。
 会の初代会長であった淀協西淀病院社会医学研究所長の故田尻俊一郎医師は、過労死の労災認定に医師の立場で労働現場を見据えて取り組み、既に13件という、当時の認定の門戸の狭さ(請求件数に対し5%未満)を考えあわせるなら驚異的と言っても過言でない成果をあげていた。
 これら過労死問題への取り組みのうねりを、一つの独自の運動体に結実させようとする声が田尻医師を中心にあがり、会の結成に進んでいった。

2 会の結成
 急性死等労災認定連絡会は、1981年7月17日大阪国労会館で、労働組合、被災者遺・家族、弁護士、医療関係者等55名の参加で結成された。全国に先駆けて、過労死についての組織的取り組みは大阪で第一歩を歩みだした。
 新たな労働者の問題に取り組もうとする熱気が会場には溢れていたことが思い出される。当時、未だ過労死という言葉は社会的認知をうけておらず(但し、田尻会長は結成総会の記念講演で過労死との言葉を用いている)、「急性死」を会の名とし、またその目的も、専ら労災(公災)「認定」を課題とし、企業責任を意識しつつも、その法的賠償責任を追及する視点は未だなかった。
 会の目的は、
(1)過労死の労災認定の取り組み
(2)職場の労働環境の改善
(3)労働者への過労死についての啓蒙活動
(4)労災認定行政の改善のための取り組み
をあげていた。
 当時過労死問題は貧困問題の一環として位置づけられ、日本の底辺労働者が、これだけ過酷な労働条件の下に労働を行っているという議論が会のなかではされていた。しかし、労働組合のなかには「私病」のなかにも労働の影を見出す進んだ取り組みも始まっていたことは注目されよう。
 結成直後の7月20日、現在の過労死110番の先駆けとも言うべき過労死の電話相談に取り組んでいる。

3 急性死から過労死へ
 1982年6月、田尻、細川、上畑の各氏の著になる『過労死』(労働経済社)が出版された。「急性死」から「過労死」へのキーワードの変更は、この問題の所在を明確にするものであった。田尻はこう述べている。過労死とは「臨床医学的な用語ではない。個々の臓器・系統の障害についての病理を問題にするのではなく、その背景にある労働実態に着目し、非人間的なともいうべき現在の労働のもとで、疾病・障害の発生が促進されている点を重視し、被災労働者の救済や予防をどのように進めるかとの立場からの概念である」。
 連絡会結成1年と『過労死』出版を記念した集会が1982年7月24日開かれたが、会の1年の活動を「医学的、法的、運動面でのそれぞれの立場を総合した認定に取り組むシンクタンクが確立され、被災者救済の受け皿が全国にさきがけて大阪にできた」と総括している。この集会で会の名は「大阪過労死問題連絡会」に変更された。

4 駆け込み寺としての会
 会の活動は月1回の例会を中心に行っていたが、例会にはマスコミや口コミで会の存在を知った被災者、遺族が相談に訪れ、例会は細々ながらも途絶えることなく続いていた。また1984年には『過労死110番』のパンフレットを3000部発行し、完売している。
 過労死問題のとりくみが社会的にも広がらず、この問題は特殊な労働現場における個別の問題にすぎず、一般性、普遍性を有する問題ではないのではとの疑問をもち、会の継続に弱音を吐く弁護士もいた。田尻会長はこれに対し笑顔で、「時期がくるまで被災者、遺族の駆け込み寺として存在しつづけることが大切なのでは」と励ましてくれたことを覚えている。

5 全国に先駆けての過労死110番
 1987年10月労働省(当時)は、それまでの「災害主義」の認定基準を改め「一週間主義」の立場の認定基準を定めた(基発620号)。行政が、限界はあるものの、過労死を認めざるを得なくなったことによる改訂である。
 これを契機に会は、1988年4月19日に過労死シンポジウムを開催した。会場の大阪弁護士会の会議室は参加者で一杯になっていたうえに、テレビ各社のカメラ、ライトが並び、興奮状態とも言うべきなかで、田尻会長の「いまなぜ過労死か」、池田直樹弁護士の「新認定基準の評価」などの講演と質疑がされた。
 4月23日、大阪で全国に先駆けて過労死110番が実施された。これもテレビカメラの放列の下、遺族、家族からの電話相談は鳴り止むことがなかった。
 過労死問題が労働現場における一般性、普遍性をもった課題であることが、止むことのない電話の数と被災者の職種、地位の多様さから実証された。
 会はこの大きなうねりを全国に波及させようと、東京の弁護士らに働きかけ、これが6月18日の第1回全国過労死110番(全国7ヵ所で実施)につながり、現在の大きな過労死運動の契機となった。
 4月、6月の大阪の110番には47件の相談が寄せられ、6件の予防相談のほかは全て過労死の労災請求の相談であった。その相談者を中心に、H(工場班長)、K(トラック運転手)、F(フェリーターミナル警備員)、T(営業所長)、N(電気工事監督)の各事件弁護団が結成されているが、その全てがその後業務上の決定、判決等を得ている。
 この「全国過労死110番」の取り組みが契機となって、88年10月、過労死問題に取り組む全国の弁護士により、過労死弁護団全国連絡会議が結成された。

6 過労死からKAROSHIへ
 1988年11月にはH事件をシカゴトリビューンが「JAPANESE LIVE AND DIE FOR THEIR WORK」の一面トップの見出しで報道した。「過労死」は「KAROSHI」として、当時讃美されていた日本的経営のあり方を問うキーワードとなった。

7 社会に過労死問題の石を投げる
 1989年4月、会は改訂版『過労死110番』(合同出版)を出版し、この本は内橋克人氏によって朝日新聞書評欄で取り上げられた。6月にはNHKドキュメンタリー‘89で「過労死・妻たちは告発する」(織田ディレクター)が放映され、過労死を労働現場だけでなく、家庭、更には働く人々の生き方をも含むトータルな日本の構造のなかで考える視点をつきつけた。
 11月、シンポジウム「さよなら働きスギ蜂」を、過労死を考えることを通じて健やかに働ける社会をつくりあげるためにはどうしたらよいのかをテーマに開催した。「あなたなしでも会社はまわる、心の気負いをすてましょう」「24時間戦いません。自由な時間をけじめましょう」など、個人のレベルから家庭、職場、社会への広がりのなかで議論し、その内容はブックレット『さよなら過労死』(かもがわ出版)にまとめられた。
 会はその後も、過労死問題をさまざまな視点から社会に訴え続けた。1992年11月にはk事件(証券営業マン)を契機に、ホワイトカラーの過労死の背景にあるサービス残業をとりあげ、「サービス残業110番」を実施するとともに(相談件数31件)、民法協、基礎経済学研究所との共催で、シンポジウム「さよならおかしなサービス残業」を行い、『サービス残業社会』(労働旬報社)が出版されている。
 1994年11月には、過労死問題を就職を控えた学生たちに訴える「過労死問題を考える関西学生フォーラム」を関西大学の森岡孝二教授の尽力もあって成功させ、その内容は『激論・企業社会』(岩波ブックレット№383)にまとめられた。

8 遺族、家族を励まして
 会は家族、遺族を励ます活動にも大きな力を注いできた。
 1990年12月に「大阪過労死を考える家族の会」が、17家族の参加をもって結成されたのに協力し、1993年11月には「ノーモア・カローシ・今大阪から・とうちゃんたまにはおいでよ・みんなの手作りコンサート」、1994年12月には「家族とともに過労死を考え交流する文化の夕べ」を、いずれも家族の会と共催した。またH事件をテーマにした劇団「希求座」そして「きづがわ」による劇「突然の明日」が上演され、過労死問題を感動をもって多くの人々に訴えるとともに、家族を励ましたことも特筆に値しよう。全国的にみても、大阪の家族の会の活動は高い水準にある。

9 厚生労働省を動かす
 1995年2月に「一週間主義」の認定基準を改訂し、一週間に相当な過重性があったと認められるときはそれ以前の業務も「総合的に判断」するとの基準(基発38号)に改訂された。
 この改訂をきっかけとして、大阪では認定件数はそれまで1年に1件程度であったものが、年によっては5件以上にもなった。
 更に2001年12月には、おおむね発症前6ヵ月間の長期間の過重負荷についても、発症前1ヵ月については月100時間、同2ヵ月ないし6ヵ月間については月80時間の時間外労働(1日8時間、週40時間を基準にして)があれば業務と発症との関連性があることを柱とする基準改訂が行なわれた。
 1988年に結成された過労死弁護団全国連絡会議の弁護士が遺・家族、労働組合等の支援者らと共に勝ち取った判決と、過労死問題に対する社会的な関心の高まりが、厚生労働省をようやく動かすことができたと言えよう。この改訂の力により大阪でも、改正直後にトラック運転手のn・名糖運輸業務上外事件で、高裁係属中に、堺労基署長は業務上との逆転決定を自ら行ない、また女性編集デザイナーのt・ジアース損害賠償請求事件で2002年2月企業が全面的な責任を認め謝罪するという勝利和解が成立している。
 この改訂は、このように大阪でも衝撃的と言ってもよい前向きのインパクトを過労死運動に与えた。しかし、月45時間から80時間のグレーゾーンを、今後の実践のなかで認定の射程距離に入れる努力と、業務の質によっては月45時間以下の時間外労働によっても過労死は認定されるべきとの運動を今後つくりあげることが求められた。

10 精神障害・自殺への取り組み
 精神障害・自殺については、1999年9月に労働省(当時)が「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針」を発表した。
 大阪でもその前後に、阪神淡路大震災後被災地に復興事業のため派遣され業務に従事していたゼネコン会社の管理職、1ヵ月間以上に亘って翌日未明までの業務に従事していた電力会社員、店長として責任ある仕事に長時間ついていた料理店長についての業務上の決定を得るとともに企業賠償責任に取り組んできている。
 リストラが進行する職場はストレスの高圧釜の如き状況が生まれていることが、過労自殺の事件からは見ることができる。
 「判断指針」は認定への細い道を拓いたものの、これを踏み固め広いものにする努力を重ねることも連絡会の重要な課題であったが、2011年に救済の範囲を広げた認定基準に改正されている。

11 企業賠償責任へ
 連絡会は「労災認定連絡会」として結成されたが、結成後1年にして「急性死問題連絡会」に改称された。労災認定と同時に過労死を生み出している企業の責任追及を進めることの重要性を考えてのことであった。H事件の椿本精工に対する全面勝利和解(1994年11月)以降、労災認定と企業賠償責任とを併行して取り組み、多くの事件で賠償責任並びに謝罪を企業に認めさせてきた。
 とりわけ電通過労自殺損害賠償請求事件の最高裁判決以降、被災者側の過失、基礎疾病による寄与度等の減額を最小限度にとどめた、あるいは認めさせない解決が相次いだ。

12 過労死、精神障害・自殺の救済の前進
 1999年9月に精神障害・自殺についての認定基準である「判断指針」が定められたことにより、それまでは少数にとどまっていた精神障害・自殺の労災請求並びに認定件数は飛躍的に増加し、2010年度においては決定件数1061件中308件(認定率29.0%)となっている。
 脳・心臓疾患についても2001年12月認定基準の改正が行われたのち、2010年度においては決定件数696件中285件(認定率40.9%)と救済は前進した。
 過労死、更に自殺の労災認定は、連絡会結成当初の10年間その救済の道はあるかなきかの如くであったが、その後の10年間で道は形をなしていき、最近の10年間でしっかりとした道として踏み固められつつある。
 認定基準を充足せず業務外とされた事件について行政訴訟で争い、国立循環器病センターの若き看護師だった故Mさんの公務上判決(大阪高裁2008年10月)等多くの訴訟で成果をあげてきた。
 企業賠償責任の分野では、会社の責任のみならず、長時間労働を生み出す社内体制を構築した社長はじめ取締役の責任を追及する訴訟にも会は積極的に取り組んだ。大庄(日本海庄や)事件の高裁判決(大阪高裁2011年5月)は、「責任感のある誠実な経営者であれば、労働者の至高の法益である生命・健康を損なうことがない体制を構築すべき義務がある」として、社長はじめトップの個人責任を認めた。
 大阪らしい取組みとしては、サービス残業分を加えて給付額の基礎となる給付基礎日額を計算させ、遺族補償給付を上乗せするための不服審査である。これによって年金額が大幅にアップし、2倍を超えたという事例もある。判決や審査会の裁決を積み重ねるなか、サービス残業分を上乗せする取扱いは厚労省が通達で認めており、地方公務員の「労災」である地方公務員災害補償基金の補償についても、連絡会の弁護士が訴訟で勝訴し認められるに至っている。

13 過労死・自殺問題を考える多様なシンポジウムと出版
 最近の10年間に連絡会は職種別等に分けて多様なテーマで、過労死110番実施の時期にあわせて、過労死・自殺を考えるシンポジウムを開催した。

2002年11月「これで患者の命が救えるか―医療現場の労働実態を考える」
2004年 6月「先生、しんどそうだけど大丈夫?―教師の過労・働き過ぎを考える」
2005年 6月「これで安全は守られるか―公共交通機関の過重・過密運転労働を考える」
2006年 6月「管理職の不払い残業と過労死―死ぬまでサービス残業、死んでもサービス残業!?」
2006年11月「壊れゆく若者の労働現場―過労自殺とワーキングプアー」
2007年 6月「勤務医の過労死・過労自殺―健康・安全な医療現場を守るために」
2008年 6月「なぜ、あの人は死ぬまで働いたのか―ストップ!過労死・過労自殺」
2010年 6月「若年労働者を使い捨てにする外食産業の過労死・サービス残業を考える」
2010年11月「若年労働者の過労死・過労自殺からみる就活におけるブラック企業の見分け方」

 2005年6月と2010年11月のシンポジウムの内容は、「公共交通が危ない―規制緩和と過密労働」「就活とブラック企業―現代の若者の働き方事情」のブックレット(いずれも岩波書店)として出版された。
 また、連絡会の知識と経験をまとめて、被災者・遺族が労災認定、企業賠償に取り組む手引書として、2003年3月に「Q&A過労死・過労自殺110番」の全訂版を出版した。更に2011年7月に「過労死・過労自殺の救済Q&A―労災認定と企業賠償への取組み」(いずれも民事法研究会発刊)を出版し、現在改訂版の出版に向けて準備中である。

14 過労死防止基本法制定へ
 会は「ノーモア・カローシ」の思いをこめて、過労死の救済と予防を両輪と考えて運動を進めてきた。
 過労死の背景には過労死ラインを超える時間外労働を容認する三六協定があると考え情報公開訴訟に取り組み、2005年3月に大阪地裁で一部を除いて公開を認める判決(確定)を得ている。この判決に基づき大阪府下の上場会社の36協定を調査した結果、ほぼ半数近くに過労死ライン(月80時間の時間外労働)を超える三六協定が締結されている事実が明らかになった。
 個々の当事者の救済のための行政訴訟手続とともに、過労死をなくすためのこれら取組みが、日本労働弁護団や過労死弁護団全国連絡会議、全国過労死を考える家族の会などが呼びかけた過労死防止基本法制定の運動に向けての大きな流れに合流した。2010年10月の「過労死防止法を求める院内集会」を出発点に、基本法制定に向けての具体的な取り組みが踏み出された。過労死・過労自殺の遺・家族を中心とした取り組みのなかで超党派議員連盟が結成され、2014年6月には過労死等防止対策推進法が制定され、10月には施行されている。
 

15 おわりに
 大切な人を失い涙を流す遺族の労災認定に向けての駆け込み寺から、過労死させた企業の責任を追及する同伴ランナーとして、そして今、過労死防止の取り組みを通じてディーセントワーク(生きがいのある人間らしい仕事)目指して労働現場のあり方を考える運動へと、会の取り組みは広がっている。

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