花見の回数券
週末、急に思いたって京都の醍醐寺、そして宇治へと花見に出かける。
さまざまなことを思い出させる桜かな
との句どおり、昔の楽しかったこと、悲しかったことを、舞う桜の花びらの1つ1つが思い出させてくれる。
10年程前に「人生の花見の回数券」と題して、恥ずかしながらつぎのような駄文をしたためた。
「人は12枚綴りの回数券を毎年1枚1枚つかいながらその年を生きている。その1枚には家族たちとの団らん、よき友らとの語らい、趣味のスポーツ、文化との出会いなど、人世の楽しさ、喜びがこめられた花見の回数券とも言えよう。多くの人は回数券を5冊使って還暦を迎えたのちも、更に何冊かの回数券を残して豊かな老後をすごしている。
ある日胸のポケットに手をあてたとき、未だ何冊か残されていたはずの回数券が突然1枚も残っていない、これまでの回数券も早送りのビデオのような仕事の忙しさに花見をするゆとりもなく使ってきてしまった、そんな無念な想いを過労死・過労自殺した人びとは残しているのではないか。」
この分を読んだであろうK弁護士より、
また一枚きる観桜の回数券
との返句(?)を頂いた。1年1年を生きていく気魄が伝わる句である。
もう、5冊目の回数券を使い切って、単券の切符も何枚か使ってしまった。あと何枚残っているのか知る由もないが、野垂れ死にするまで、過労死問題と向き合おうと思う。
« 過労死の認定基準(長期間の過重負荷①) | トップページ | 精神障害・自殺労災認定基準に関する「改正」に向けての議論について »
« 過労死の認定基準(長期間の過重負荷①) | トップページ | 精神障害・自殺労災認定基準に関する「改正」に向けての議論について »
コメント